原理・原則をみつける

指導者によって武術・武道の教え方は違うと思いますが、私は技を説明する際に、ほぼ必ず、身体操作の原理・原則を交えて説明するようにしています。

原理・原則を会得できれば上達が早い(はず)だからです。体の使い方の根幹を成すのであらゆる技に応用できます。

例えば、心体育道では、相手を崩すことなく自分と相手の正面が”ぶつかる”ことはありません

原則、自分の背中と相手の背中を合わせるように移動し、できるだけ正面を外した位置から技をかけます。

人体の急所:顔面(目・鼻・顎など)、首(気管・頸椎)、心臓、大動脈、みぞおち、金的などが正面・中心に集中していることが理由のひとつです。

自分と相手の正面が向き合うということは相手に自分の急所をさらすことに他なりません。相手より速く急所を狙う攻撃的な技もありますが、基本的には自分が安全な位置を確保することを最優先させます。

また、心体育道の型は、転回するステップが極めて多いです。

道場生は型を練習する際、しばしば左に回るのか右に回るのか混乱するのですが、正面がぶつからないように背中合わせに移動する、お腹を見せ合わない、という原則を説明すると理解が深まります(残念ながら覚えやすくはならないようですが)。

この原理・原則論はビジネスにも応用が可能と考えます。

会社・組織の戦略によって戦い方は異なりますが、特にポジショニングにおいて重要なポイントになるように思います。

心体育道の”負けない”戦略に合わせて考えると、まず競争の激しい市場にポジショニングをとらないことが第一となります。

競合相手に対して正面からぶつからず、手の内/腹の内を見せず、静かに背中を合わせるように近づき、気が付けば相手の背後を取っている。相手の変化に合わせて自分が変化し、事業展開するーといった感じでしょうか。

仮にこの原理・原則をすべての従業員がよく理解していれば、会社・組織としての成長も早く確実でしょう。

道場で武術を教えることと同じではありませんが、組織のリーダーは原理・原則をいかにうまく従業員に説明できるかが重要なのではないでしょうか。

肥満を合併した糖尿病患者さんはしばしば膝を悪くされます。

身体の重さが膝に負担をかけ、関節軟骨がすり減り、変形性膝関節症に至る。悪化すれば手術することもあります。

膝を悪くすると痛みのため歩かなくなり、座りがちな生活が続き、そして太ります。

太るとさらに膝に負担がかかり膝関節症が悪化する…一度陥ってしまうと抜けられない負のスパイラルです。

40-50代の内に適正体重を保つことがいかに重要であるか、患者さんの姿を見て痛感します。

膝は武術・武道においても要となる部位です。

膝の向く方向が体全体の力が伝わる方向であり、腰と同様、攻撃力の要です。

また、膝関節は下半身の”急所”でもあります。

膝関節を破壊されると立つことが出来ません。足を使えなくなれば、負けます(死にます)。防御の要でもあります。

私が修練している心体育道では膝関節蹴りを多用します。膝関節を破壊する蹴りもあれば、膝関節の屈側(内側)に力を加え崩す技もあります。

競技空手では禁じ手とされている技ですが、護身の技としては極めて有効です。

他にも踵で膝蓋骨(膝のお皿の骨)を破壊する技もあります。

運動療法において足を使うことは必須ですので、”良い”膝は健康管理に欠かせません。

また、武術・武道において膝を”正しく”使うことは要です。

膝を守り、(膝周りの筋肉を)鍛えることは、長く生きていく上でこの上なく大切なことだと思います。

歩くということ

ヒトが進化して獲得した直立二足歩行は、骨盤の位置を上下させ(片足の膝関節が伸びきった時に高くなり、足を前に踏み出して両足が接地した時に低くなる)、四足歩行よりエネルギー効率を高く(位置エネルギーを運動エネルギーに変換する)しました。

一方、武術では腰の上下や体軸の左右のブレを嫌います。

一般的には、重心の変化によって自分が不安定になることを避け、四方八方に素早く移動するため、上下左右のブレをなくし体の安定を保つことが目的だと考えられます。

私も道場生にそのように指導しますが、本当にそうかな?と思うことがしばしばあります。

“歩く”ということは、ヒトの生活の基本動作ですが、武術の奥義と言っても過言ではありません。

実は、良いとされる歩法は武術の種類・流派によって異なります。

私はあまり歩き方を指導することはなく、立ち方・足運び・各技を何度も何度も繰り返すことによって、自然と最適な歩き方になるはずだ、という考えを持っています。

さらに言うならば、私は万人にとって正しい歩き方があるのではなく、一人一人最適な歩き方が異なると考えています。

正しい走り方、正しい投げ方、正しい泳ぎ方…etc。

スポーツにおいても”正しさ”を指導することが多いと思いますが、考えてみれば人間はひとりひとり筋肉の質・量、骨の長さ・太さ、関節の位置・柔軟性が微妙に時に大きく異なっているわけで、万人にとって”正しい”身体操作なんてあるはずがないのです。

遺伝子レベルでの医療の個別化と同じように、スポーツと武術・武道における指導も個別化が必要と思います。

道場生の動きを見て「それは間違っている。」と言うことはありません。

もちろん、筋肉と骨格のバランスを崩し体を痛めるような歩き方は直すべきですが、何年もの間続けている歩き方はある意味その人において最適化されていると思われます。

歩き方はその人の経験や性格、その時々の感情など含め、”人となり”を表すとも言えます。

「人生の歩み」という言葉が示す通り、歩くということはその人の人生そのものであり、武術・武道においてはその神髄であると思います。

観の目

観の目“という言葉をご存知でしょうか?

宮本武蔵の「五輪書」に出てくる言葉で、武道・武術を学ぶ者にとって極めて重要な言葉です。

人と対した時、一点を見ない、全体を見る。

相手の目、手、足、一部の動きに意識を囚われないようにする。相手の体全体を見て全体の一部として動きを捉える。

大雑把に言うならば、“ぼんやりと見て、的確に変化をつかむ”。

道場生にも日々指導していますが、相手を同じ次元(線・面・高さ)で見るのではなく、相手を頭上から見渡すように見るように意識する。※上から目線、ではありません!

間違っているかもしれませんが、これが私の解釈です。

宮本武蔵は武人ですから、武道・武術の範疇での解釈になりますが、実はこの言葉、社会生活における対人関係に応用が効きます。

仕事においても家庭においても、人を一点・一面の特徴から見てしまうと、その人の本質を見誤ります。

きっと、気に入らない点や面は鼻につき目立ち、自分の心が囚われてしまいがちなのですが、一旦離れて見てみると、それがその人のほんの一部でしかないことに気づくことがしばしばあるのではないでしょうか。

“観の目”は、瞬間的には人を全体で見て、経時的にはその変化に注意することの大切さを表しているのだと考えます。

刹那に囚われないこと。

自分も相手も、人間は変わりゆく存在です。

“観の目”をもつことができれば、敵対関係で負けることはないでしょうし、対人関係も円滑になるはずです。

みなさんには師と呼べる人はいますか?

学校や職場で師と呼べる人物に出会い、一生涯付き合いを続け、その人から学びを得る。

一般的には自分より年上だと思いますが、同年代であっても年下であっても、自分の師となり得ます。

そして、師から積極的に学びを得ようとする姿勢が自分を成長させるのだと思います。

goo辞書によると、“学問・技芸を教授する人。師匠。先生。”と定義されていますが、私は師という言葉にはもっと感情的なものが含まれていると思います。単に技術に優れた人ではなく、心の指導者、のような。

私の場合、残念ながら、学校や職場で師と呼べる人物には未だお会いできていません。

私が師と呼べるのは武術のH先生だけです。

“三年勤め学ばんよりは、三年師を選ぶべし”という中国の諺がありますが、良師の下で学ぶことは独学よりも圧倒的に効果が高いことが古くから言われてきたわけです。

では、良師を見つけるためにはどうすれば良いのか?

いろいろな先生と会う機会を、できるだけたくさんつくることではないでしょうか。

私は武道・武術を学び始めてから、機会を見つけて多くの道場を見学し、先生方とお話してきました。短期間入門し、稽古をご一緒させていただきながら先生方をよく観察することもありました。

H先生は、技術に優れていることはもちろん、懐が深く、自分の心も学びを得ることができるに違いないと思えた初めてのお方でした。

今、仕事をご一緒する良師との出会いを期待しています。

そのために、積極的に機会を見つけあるいは場を設け、いろいろな方とお会いしたいと考えています。